母校の小学校にも行ってみた(4)
小学校シリーズ、たぶん最終回の4回目です。昭和46年に開校した母校ですが、実はそのはるか昔から歴史のある場所でした。
井野っこ山は遺跡の一部だった
校庭の東側には林があり、小径を作って『井野っこ山』と称していました。教室の外で授業をしたり、小鳥のための巣箱を作って木にくくりつけたり、合唱の練習をしたり、林の中の小径を使ってかけっこをしたり…。みんなに思い出のある場所であり、ある意味ではこの小学校の象徴とも言える場所です。


実はこの場所、『井野長割遺跡』という縄文時代中後期の遺跡なのです。ちょっと鍬を入れると土器のカケラがいっぱい出てきたのもうなずけますね。
遺跡は小学校の建設時に発見されたそうですが、2000年代まで8回ほど、慶應義塾大学と佐倉市とで調査が行われています。私達が通っていた時分は、いつもどこかに発掘調査の穴があいていて、そこらじゅうブルーシートがかけられていたように記憶しています。
小学校がある場所は、地形的には少し高くなった場所で、付近には『先崎(まっさき)』(複雑に入り組んだ土地に突き出した岬)という地名もあることから、この土地は縄文海進から逃れた高台であり、ここに住んでいた縄文人は眼下に広がる内海(今は印旛沼が名残りを留める)を見ながら生活していたのだろう、と推測できます。
そう言った意味では、縄文時代のユーカリが丘一帯は全て海の中ですね…。

現在は発掘調査もひと段落しているのか、また林と草むらに戻っています。
思えば、何千年何万年と続く土地の歴史の中で、たった6年間を小学生時代として切り取っていたんですね。
3月28日追記:GoogleのAI(Gemini)に聞いてみた。
千葉県佐倉市で、縄文海進から逃れた地区を教えてください
★回答抜粋
縄文海進とは、縄文時代の温暖化に伴う海水面の上昇により、低地が海や湖になった現象です。この影響は、佐倉市を含む印旛沼周辺にも及びました。
佐倉市内で縄文海進の影響を免れたと考えられる地区としては、以下の点が挙げられます。
* 台地上の遺跡:
* 佐倉市内の台地上に位置する遺跡、例えば井野長割遺跡などは、縄文海進の影響を受けずに当時の人々の生活の場となりました。これらの台地は、縄文時代の海水面よりも標高が高かったため、水没を免れたと考えられます。
* これらの台地では、縄文時代の貝塚なども発見されており、当時の人々の生活を知る上で重要な手がかりとなっています。
これにて、小学校シリーズ終わりです。